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January 22, 2006

雪わたり~紺三郎のきびだんご

 小学校2年生の時、担任のI先生に読んでいただいたのが最初の出会いです。四郎とかん子がキツネの紺三郎と出会い、心を通わせた後の キック・キック・トントン、キック・キック・トントン という歌がクラスのみんなにウケて、しばらくの間休み時間になるとそのフレーズを繰り返していました。

 紺三郎は四郎とかん子の名前は知っていましたし、四郎たちも紺三郎を見かけたことが過去にあったのかもしれません。でも話をすることはなかった。まるで近くに住んでる外国人みたいです。そんな三人がひょんな事から仲良くなり意気投合して歌ったのがこの歌。キック・キック・トントン・・・・新しい友達ができたよ、嬉しいなという三人の気持ちが伝わってくる楽しい気分にさせてくれる歌です。

 後半、キツネの学校の幻燈会に行った四郎とかん子がキツネの作っただんごを食べ、それを見た紺三郎が感激して涙ぐむシーンがあります。「なにも泣くほどのことでもないじゃない」というのが子どもの頃の実直な感想。

 おとなになって読み返してみるとその意味もわかります。実際人がつくったものを食べる事って、結構勇気がいりますよね。自分が料理をするようになり、作る人の気持ちがわかるようになって食べてあげられるようになりましたが、それでもよその家の料理って一息入れて覚悟を決めてから食べにかからなければなりません。余程気を赦した人でないとすんなり口に運ぶのはむずかしい・・・よその家庭料理よりもコンビニの惣菜のほうが安心して食べられてしまう・・・私も悲しき現代人の一人なんでしょうか。

 高校生の頃、登下校の途中朝鮮学校の制服を見かけるとさり気なく離れていったものです。朝鮮学校の人に睨まれると凄いリンチにあうという噂が定着していたからです。よくよく考えてみれば根も葉もない言い掛かりだとわかるんですが・・・

 四郎やかん子も人間社会の噂でキツネは人を騙すものだと思っていました。紺三郎と知り合ったことによってそれは単なる誤解だとわかったのです。知らないということは誤解を生み、なにかしら恐怖のようなものを感じる時さえあります。わかろうとする気持ち、信じようとする気持ちこそがそんな誤解を解いていく唯一の方法のようです。

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January 09, 2006

雪の女王

 潜在的に雪景色に対する憧れがあるのか、好きな童話の中に雪が出てくるものが多いんです。私の雪が舞台になった好きな童話ベスト3をあげるとすると、ライオンと魔女森は生きている、それから雪の女王です。

 子どもの頃、この話を読んでなぜだか惹かれるものがあったのですが、そのわけがよくわかりませんでした。そもそも雪の女王とは何者で、なんの目的があってカイをさらっていったのか、さっぱり意味がわからなかったのです。

 おとなになって読み返してみると、なんとなく魅力の糸口が解けてきました。まず、他のアンデルセン童話にも見られるフェミニズム。昔話や昨今のゲームにもあるような捕らわれたお姫様を王子様が助け出すのとは反対に、この物語は捕らわれるのは男の子、助けにいくのは女の子。ゲルダもアンデルセンのヒロインにふさわしく、勇気と行動力があって、自分の力で運命を切り開いていきます。

 雪の女王が何者であるかも、ぼんやりとですが見えてきました。まず、綺麗であること。それから広い大きな御殿に多くの僕を従えて住んでいる事。仕事もちゃんとあるようで、火山に雪を降らせるのが彼女の仕事、或いは仕事のひとつのようです。火山に雪を降らせる事がレモンやブドウのためになるんだそうです。つまり、世の中の役に立つ事をやってるんですね。それに加え、捕らわれの身のカイにむかって「理知の氷遊びの言葉を全部組合す事が出来たら自由にしてやる」と約束までしてくれるのです。どうやら、子どもの頃に抱いた単なる恐い女の人ではないようです。

 美と富と権力を手にしている雪の女王。そんな恵まれた人が何故カイをさらっていったのでしょう。----寂しかったからでしょうね。雪の女王も、ゲルダを引き止める魔法使いのおばあさんも、山賊の娘も、みんな、寂しかったのでしょう。

 ありとあらゆるものを手にしながら、一番大切なものが得られなかった雪の女王の悲劇を雪と氷の描写によって描いた、きれいで幻想的な傑作です。


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だるまちゃんとかみなりちゃん~絵が物語る面白さ

 今から約15年前、夫のたっての願いで一戸建てのマイホームを購入する事ができました。場所は千葉、茨城、埼玉3県の県境。今なら格安の値段で買えそうですが、当時はまだバブルもはじける前だったので、それ相当の経済負担はありました。都心から電車で2時間近くもかかるところなので、友達もなかなか遊びにきてはくれません。半年もたった頃、OL時代の友人2人がやっと遊びにきてくれました。駅に迎えに行くなり「スゴイところだね」と見渡す田園風景に感心したので、「田舎を思い出すでしょう」と問い掛けると「ウチの田舎の方がずっと開けてる」ですって。

 彼女達が当時2歳になる娘への手土産に持ってきてくれた絵本の一冊がこの「だるまちゃんとかみなりちゃん」でした。子どもに読んであげてるはずが、おとな3人が絵本見ながらゲラゲラ笑って過ごす始末。まず、絵が面白い。かみなりの国ではビルにも信号にもなんでもかんでもツノが2本ついていて、それを見て笑い、お皿にもコップにもツノがついてるとツノを発見するたびに笑いあっていました。

 かみなりちゃんがどうして雲の上から地上へ落ちてきたのか、お父さんのかみなりどんがどうしてかみなりちゃんの居場所を突き止めたのか、文章で詳しく書いてあるわけではないのに絵を見ているだけでわかってしまう。この本は多くの部分絵によって語られています。それからだるまちゃんかみなりちゃんの表情。困った顔、怒った顔、楽しそうな顔、絵を見ているだけで2人がどんな気持ちか文章に書かれていなくてもわかってしまう。

 絵本は絵があるから絵本なんですね。絵本における絵の重要性を感じさせられた一冊です。

 

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January 04, 2006

南総里見八犬伝~悪役が奏でる物語の醍醐味

 正月休暇は実家のほかは特に行くところもないので朝から夜までテレビ三昧。特に八犬伝は前から楽しみにしていたので二夜連続で見ちゃいました。かつて見た真田広幸、薬師丸ひろ子主演の映画は「勘弁してよ」と言いたくなる駄作でしたが、今回はストーリーもそんなにいじくってなくキャストも適材適所に揃って悪くなかったです。

 八犬伝の本は主に児童書で何種類も読みましたが、一番鮮明に残っているのは子どもの頃NHKで放送していた辻村ジュサブローの人形劇「新・八犬伝」(ヤバイ・・・年がバレてしまう・・・)当時担任の先生の好みだったのも手伝って私のいるクラスではほとんどの人が「新・八犬伝」を見ていました。中には玉梓の物真似が得意な子がいて「我こそは玉梓がおんりょ~う」とやってくれると、私も船虫の物真似で対抗して「あたしゃね、好きなよ~に生きるのさ。フン!」とやってみんなから「そっくり!」と賞賛を浴びてました。

 今回のドラマは配役が実にイメージ通りだったので無理なく楽しめました。ただ、私のハマリ役(?)でもある船虫は原作ではどうにも手のつけられない悪女。「新・八犬伝」ではそのキャラの面白さも手伝って原作以上に活躍していたけど、このドラマではどちらかというと悲劇の女の設定。その脚色自体は悪くないのだけど、ともさかりえでは役者不足。八剣士の中では唯一壮助の佐藤隆太がミスマッチ。壮助は物静かな男といったイメージが強いので、陽気な三枚目のイメージの佐藤さんは最後まで違和感を感じた。あと、強いて言えば毛野は女装しても見られる位の美少年にやってほしかった。それ以外は本当に悪くないキャスティングでした。

 そして何よりも悪役の顔ぶれがとってもいい。蟇六・亀篠夫妻の小日向文世、泉ピン子は小悪人を好演。さもしい浪人・網干左母次郎の田辺誠一や化け猫に取り憑かれた陣内さんもいい味出してました。中でも籠山一東太の武田鉄也には圧倒されました。それから菅野美穂の玉梓も迫力があり且つあでやかでヒロインの仲間由紀枝を完璧にくってました。

 私は小さいときからお芝居をやると必ずといっていいほど悪い役をやりました。いい人の役に比べて悪い人の役って演じていて面白いんですよ。多分人間って皆、いい人になりたい願望と背中合わせに悪くなりたい願望も併せ持っているんだと思います。だから芝居の中で悪を実体化するとスカッとするのでしょうね。

 芝居でも小説でも悪役に魅力があるとストーリーがぐぐっと引き締まりより面白くなります。八犬伝の悪者たち、大物から小悪党まで人間臭く味わいがあって主役達以上に物語を楽しませてくれています。
 

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January 03, 2006

夕あかりの国~黄昏ムード漂う絵本

 「長靴下のピッピ」の作者、アストリッド・リンドグレーンの作品です。けれどピッピにある爽快感はこの本にはありません。

 病気で一生歩く事が出来なくなってしまった少年のところへ夕あかりの国から迎えが来ます。夕あかりの国は別名「ないないの国」ともいうそうです。そういうとピーター・パンのいるあの島を連想しますが、迎えにきたのは子どもと同じ位の背丈しかない小さなおじさん。

 空を飛んで夕あかりの国へ行った少年は電車やバスの運転をさせてもらったり、王様にお目通りしたり、女の子とダンスを踊ったり楽しい時間を過ごします。夕あかりの国ではなんでもできて、なんとでもなるのです。ただし、そこに行けるのは選ばれた人だけなんです。

 うわべだけ文章を追っていると、とても楽しそうなんですが、この本を読んでいると素直に楽しめる・・・というわけには行きません。少年が楽しい描写をすればするほど、せつない気分になってきます。タイトルから連想されるとおり、黄昏時のはかなげなムードが絵と文、双方から漂っています。

 本を読みふけったり、漫画やゲームに没頭したり、頭の中だけで想像したりする事は一種の現実逃避です。だけど現実というのは必ずしも思うようには運びません。むしろ思ったように行かない事のほうが多いのです。フィクション=虚構に触れる事によって上手くいかない現実と折り合いをつけるのだと思います。本を読まない子、とりわけフィクションを読まない子は、いざという時の心の対応にとても苦労するのだそうです。

 この本の少年も夕あかりの国に行く事によって目の前に突きつけられた厳しい現実となんとか向き合おうとしていうようです。ただ、楽しい行いをすればするほど漂うせつなさ。彼の悲しみはそうそう簡単にぬぐい去れるものじゃないようです。

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